船橋市   歴史⑤

船橋市       歴史

        江戸時代

 

豊臣秀吉の後北条氏征服(1590)後、関東地方の多くは徳川家康の領地とされ、船橋地方は代官領と旗本領とされました。その旗本の中には後に尾張犬山城主となった成瀬正成(まさなり)がいます。成瀬家の墓の一部は西船の宝成寺(ほうじょうじ)にあり、市の文化財に指定されています。
家康は街道の新設・整備につとめましたが、その一つに船橋から東金に至る御成(おなり)街道があります。船橋はその他に佐倉(成田)街道、上総街道、行徳街道の集中する所であったので、宿場として大いに発展し、江戸後期には旅館数が30軒にも上りました。
江戸時代の房総には、幕府直轄の広大な馬の放し飼いの牧場が置かれ、船橋市の中央の台地もその一つとされ、下野牧(しものまき)と呼ばれました。牧場の周囲は土塁や堀を巡らし、牧場を横切る道の出入口には木戸が設けられていました。
17世紀後半になると、牧場と周辺原野の一部が開墾され、畑作の農村が成立しました。前原、滝台、行田、上山、藤原、丸山、神保の新田(しんでん)村で、いずれも延宝年間(1670年代)に成立しました。また薬園台(正伯(しょうはく))新田は、享保7年成立の幕府薬草園が間もなく廃され、畑作村となったものです。
江戸時代の産業の中心は農業で、水田農業に重点が置かれていましたが、宿場や漁師町近辺では、野菜や果樹栽培も盛んとなりました。船橋の漁師町は内湾有数の漁業地帯で、主に春~秋は網漁、冬は貝漁が行われました。

つづく